認識と存在とAI その1

前回は、ゴルギアスが提示した「言語の謎」について述べました。今回は、その続きとして「認識」と「存在」の謎について考察していきます。

そもそも「存在」とは何か

「存在」と「認識」を同時に語った代表的な言葉に、デカルトの「我思う、故に我あり」があります。この言葉では、思考(=認識)を通じて存在が証明されるとされました。しかし、「存在」という概念を、認識から切り離し、物自体として独立に論じることも重要です。特にAIを考察するにあたり、「言語」「認識」「存在」という三つの謎をそれぞれ分析するには、存在と認識を明確に分けて捉える必要があると考えます。
まず、あるものが「存在する」と言えるためには、「境界が明確である」ことが一つの条件だと思われます。つまり、ある範囲までがそのものの空間であり、それを越えると「存在しない」領域となる。そう考えるのは、自然な発想です。
しかし、この「境界」を厳密に、また客観的に表現することは可能なのでしょうか? 以下に、その困難さを示す2つの例を挙げます。

存在は認識できないのか?

1)神は光と闇を分けた

旧約聖書『創世記』には、「神は光と闇を分けた」という記述があります。神はまず光を創造し、それを闇と分離しました。ここで重要なのは、「光と闇を分ける」という行為そのものが、神にのみ可能であるとされている点です。つまり、存在の境界を定めるという根本的な行為は、人間には不可能だという観点が含まれているのです。

2)山際と山の端

『枕草子』には「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際」という有名な一節があります。また、「夕日のさして山の端いと近うなりたるに」という表現もあり、「山際」「山の端」が美しく描かれています。
この「山の端」について考えてみましょう。たとえば、ある地点から富士山を眺めると、その輪郭=端が見えます。そして、登山者がその端と思われる場所に到達することも可能です。また、ヘリコプターで空中から限界まで接近することもできます。しかし、「ここが境界だ」と外側から厳密に定義することはできません。
つまり、「存在する側からは境界が分かる」が、「存在しない側からは境界が見えない」のです。この考え方は、数学でいうところの「デデキント切断(Dedekind cut)」にも通じる発想です。私としては、これがデカルトの言う「思考を通じて存在を確かめる」という哲学と対応する、ひとつの存在論的な理解であると考えています。

AIはこの問題にどう向き合うのか?

では、AIがこの「存在の境界」の問題にどのようにアプローチできるのでしょうか?
  • 「境界を分ける」という行為
  • 「存在しない側から境界を定める」という行為
この2つは根本的に異なります。AIはこの違いをどのように表現し、処理することができるのか。あるいは、それは人間と同様に不完全な行為なのか。AIが成長する中で、こうした問題にどう対応しうるのかは、今後の重要な研究テーマになるでしょう。

投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: